古来から良くある語りごとだ。天狗や狐に化かされて神隠しにあった、魔女やら妖精やらに連れ去られた。果ては次元の狭間に落ちただの。語りごとのどれもに共通するのは【今、この場所ではない全く別の何処か】に、いなくなった、という点だ。端で聞けば鼻で笑って相手にしないだろうし、本で読めば良くもまぁこれほどの想像力と言葉を考えられたものだと感心半分呆れ半分でページを捲っただろう。誰もが、幼子に聞かせる程度の、幼稚な空想だと考えているのだ。


その、少年とも青年とも呼べる外見の彼は、視界の奥で見える白煙をしっかりと目に留めていた。騒然とした周囲の空気を全身で感じ取りながらも、彼の纏う空気は酷く落ち着いている。ように見えた。

「……参ったな」

徐にぐるりと三六〇度回転して、全ての景色を眺め終えた後、苦笑を滲ませながら呟いた。彼方に飛びかけた意識がようやく戻ってきたのと対応するように、彼は白煙の上る方角を見続けている。火事か、大きな爆発でもあったのだろうか。それにしては多くの人が荷物を持って同じ方向に歩いている。

「おいっ!早く避難しないと取り残されるぞっ!」

腕を掴まれ、引っ張られた。見ると、必死の形相で中年の男性が腕を掴んでいる。片手に荷物を抱えながら、ぶつぶつと何かを言っているのが聞こえたが、あえて聞き取ろうとはしなかった。

「急がないと死んじまうんだっ!ボヤッとしてるなっ!」

一切大きく聞こえた科白の中、死ぬ、という単語が引っ掛かったが、問い掛ける前に男性は誰かに向かってまた声を上げている。見ると、彼と年が近いのだろう髪を一つにまとめた女性が荷物を両手に、笑顔を向けて答えていた。
安心した、という笑顔だ。

「さぁ、港に行くぞ!」

どうやら随分な異常事態らしかった。


突然だった。
知人と通路を歩きながら話しをして、別れてから何分も経っていなかった。擦れ違う人のない通路で一日の日程を考えていたら、前触れなく目眩が襲ってきたのだ。平衡感覚を失うほどの、コマのように高速で回された直後、三半規管のリンパ液が回転し、落ち着かないせいで歩くことが出来なくなるのと同じか、それ以上の強烈な目眩だった。立っているのかふらついているのかさえ分からなくなり、ぐらりと視界が傾いだ瞬間、白い何かが目前を横切ったような気がした。
そして暗転。

目を開けたらあの場所に立っていたのである。冗談にもならない。だが笑い飛ばして無しにするにはリアルすぎた。
夫婦の後をついていくと、他にも多くが同じ方向に避難していた。それぞれの荷物を持って、怯えきった顔をしながら列を作っている。力一杯握られた手首は解放され、前を歩く男性は引っ張っていたその手に荷物を握っていた。
酷く重そうな後ろ姿に、肩を叩いて手伝うと言うとそれは驚いた顔をされた。初めは断られたが、何せ彼は呆然として停止していた思考に動く切っ掛けを与えてくれたのだ。頭の中の混乱は未だに続いているが、状況を把握しようとする気持ちは生まれている。躊躇う男性に再度言うと、ようやく荷物を渡してくれた。それを見ていた女性の荷物も別けてもらう。
歩いて数分、半地下のような構造になった緩やかな坂道を更に歩いた先で、何重もの人の壁が出来ていた。
我先にと押し合い、すし詰めのようになっている。恐ろしいな、とは心の内での呟きである。

「君、有難う、ここまでで大丈夫よ」

女性が穏やかに話しかけてくる。皺の少しある、けれど綺麗な笑顔が印象に残った。

「俺たちはこのまま行くが、君はどうする?」

中年の、口ひげの似合う男性が、荷物を受け取りながら問い掛けてくる。答えるのに、少し時間がかかった。

「ちょっと様子を見ます」

短い答えに夫婦はどう受け取ったのか。男性がそうかと答えて、女性の細い肩に手を置き、先へと促す仕草をした。女性はそれに頷いて答えるが、直ぐに顔を向けてくる。

「荷物を持ってくれて有難う。あの、できれば、お名前を聞かせてもらえないかしら」

「名前?」
「えぇ、せめて貴方の名前くらい覚えておきたいわ」
「そうだな。船の中で出くわすかもしれんしな」

意外な提案に男性も頷いている。初対面の人間にここまで言われるとは予想もしなかったが、その迷いは一瞬で、人の良い笑顔の女性に小さく笑みを向けて答えた。

です」
さん、ね。本当に有難う、助かったわ」
「乗り遅れるなよ」

頭を軽く下げ、手を振り、二人は背中を向けて群衆の中に歩いていった。彼等の姿が紛れたのを確認すると、は小さく息を吐いて片手を腰に当てる。そしてゆっくりと背後を振り返った。

「…船、ねぇ?」

騒然とする中で、その一言は一瞬で掻き消えていた。







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